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挨拶文

展示企画「彫刻と対話法」は、武蔵野美術大学大学院彫刻コースと芸術文化政策コースの合同企画として、平成27年度よりスタートし、府中市美術館のご協力のもと、今年で5回目を迎えました。今年度は「彫刻と対話法V-カンガルーが走れば-」を題とし、8名の作家による作品を展示いたします。

 

展覧会の構成にあたって私たちが意識したのは、メンバーの全員が彫刻という表現形式に対して緩やかに共有しているひとつの眼差しを、展示を通して実現しようとすることです。それは、制作物をただ与えられたスペースへと設置するだけでなく、作品をもって既存の設えられた空間へと介入を試みることの重要さであり、また周囲の環境との関係性の内に、自身の作品に固有の意味を見出そうとすることの意識でもあります。

そこで私たちが注目したのは、空間を形成するための「壁」の存在です。隔てられた空間を単に異なる種類のものとして捉えるのでなく、それらの間に割って立つ「壁」が、作家個々人とその作品にとって、どのような積極的な意味を持ちうるのか。ひとつの共通の取り組みから見出した答えはそれぞれに異なるものですが、だからこそ、作品と空間の揺れ動く関係性は、彫刻という行為によってもたらされる大きな魅力ではないかと考えます。そこには同時に、会場を訪れた鑑賞者の皆様の存在も含まれてゆくことでしょう。そこで走り出す何かに期待することもまた、私たちの企図のひとつであります。

 

 

彫刻と対話法V「カンガルーが走れば」

武蔵野美術大学 彫刻コース・芸術文化政策コース一同

ごあいさつ

展示内容
・展示全体

展示内容

・展示全体

会期内スケジュール

 

6/19 作戦会議ジェンガ

6/21 足跡をなぞる

6/22 青の養生 バドミントン

6/23 講評

6/26 穴あけ

6/30 シンポジウム

・B面

・B面

・講評

・講評

ディスカッション

ディスカッション

6月30日 公開ディスカッション 府中市美術館市民ギャラリー

 

参加メンバー:(彫刻コース)川又・迫・石川・鎌崎・神農・熊谷・石山・須山 (芸術文化政策コース)秋元・中嶋

ゲスト:勝俣涼氏(美術評論家)

 

本展の公開ディスカッションは、展示室に設えられた「壁」の内側の空間で行われました。ゲストに美術評論家の勝俣涼さんをお迎えしたトークの模様を、対談形式で掲載します。

 

*対談の中で、議論の中心となる要旨には「青のマーカー」、それに対する応答・考察となる部分には「黄のマーカー」を引いて示しています。

 

①展示空間の捉え方 / 壁が組み上がるまで

 

勝俣:このギャラリーは可動壁を入れることのできる

空間になっているけれども、今回その選択をしないで、あえてこういう形で二枚の板を持って来た。それはどういったプロセスだったの?

 

迫:まず、後ろの展示室以外の空間(バックヤード)に興味を持った段階で、ここの展示室の中にあるもの以外でこの壁を立てた方がいいのではないだろうかという話が出ました。展示室にある壁を持って来て同じような壁を作ることは多分できるんですけど、そうした時に意味があるのかという、結局同じような設えになってしまうんじゃないかという問題があって、自分たちで壁を持ってくる方法になりました。

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撮影:柳場大

川又:可動壁の場合だと表と裏の区別がないので、あえてここで自分たちが壁を作って、表裏があるものを作るということが必要なのかなという気がして。

 

勝俣:確かに、このギャラリーの空間の中にギャラリーとは全然異質の空間が立ち上がってきていますよね。ギャラリーの空間のある種の使いづらさ、制約みたいなものに対して、こちらの空間の方がより豊かな活用可能性を秘めていて、展示期間の間もみんなのアイデアとか、発想で色んな使い方を開発して来ているのかなという風に思いました。今日は最終日ですが、始まってから空間の使い方をこういう風に変えて来たというのはありますか?

 

迫:空間がだんだん充実してきているというか、生活してきている感というのが増えている感覚はあります。展示が進むにつれて、だんだんと密度が上がってきているように感じましたね。

 

川又:壁の内側の方が、壁の外側で作品を置く行為よりも豊かさ、やり易さがあるように思いました。ノリでできちゃうみたいな。その場にいた人が喋って出た、その場のノリでパッと何かできるっていう感覚は、なんなんだろうなぁとちょっと思ったりしますよね。その空間と外側の空間とのやり易さの違いとはなんなんだろうなと。

 

勝俣:可塑性がありますよね。例えばあり合わせの垂木の端材で椅子を作っちゃうとか、その辺りは柔軟性のある空間なんでしょうね。

 

中嶋:普通ギャラリーでグループ展をしようとすると、各自の置いた作品の半径数メートルがその人の場所という雰囲気になる気がします。でも今回のこの壁の内側の空間は、どちらかといえば全員のものというか、空間をシェアしながら、今回作品置いてない我々も一緒に、例えば足跡をなぞったり、壁に色を入れたりということができる。そうした開かれた感覚が、フレキシブルさとかアクセスのしやすさに繋がっているんじゃないかなと思っています。

 

勝俣:それぞれの作家にしても、この内側の空間はある意味、閉じきってない感じかな。実際作品も増えていってる?

 

何人か:そうですね。

 

勝俣:そういうこともあるから、この場所は未完成とはまた別の意味で、開かれている感じはわかりますよね。それがなんというか、創造性を触発する空間になっていて、それが壁がここに置かれた、一つの理由だったのかもしれませんね。

② 壁の内側で行われる「行為」とは、何か?

 

迫:今回僕たちは壁の内側で、鉛筆で足跡をなぞったり、壁に穴をあけたりという行為をしました。その時にそうした行為を「これも作品なんじゃない?」と来場者に指摘されることがあって…。実際、自分たちの中でも、その線引きが若干わかりにくくなっている部分があるんです。それに関して勝俣さんはどういう風に思ったのかなと思って。壁と作品との境目がだんだん薄くなってきている感覚があるんですけど、この展示室に実際入ってきたりとか、外から壁を見たりした感じでは、どうなんだろうなと思って。

勝俣:この壁自体が作品に見えたりして、それがひとつ面白い点でした。靴の跡というのは、この壁が床に置かれた時に踏まれてできた靴の跡をなぞるというもの?

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撮影:柳場大

迫:そうですね。

 

勝俣:そういう風に壁自体が支持体となっていくこと、つまり表現行為の支持体として利用されていくというのが、面白いなと思いました。普通は作品があって、行為というのは別の次元におかれるものだと思うけれど、この場所というのは、むしろ行為というものがフレームアップされたかたちで行われている。その対比が面白いのかなという風に思いました。その行為というものも、ひとつの表現として制作に結びついてくるものなのか、それとも制作以前のものなのか、そこの境界が揺さぶられている感じというのは、この形式によって可能になっているところがあるのだろうと感じます。

 

川又:なんか集団制作とは違うし、個人の制作とも違うというか、それってなんなんだろうなと思っています。例えばこれを誰かの作品のようにして捉えることもできるとは思うけれど、そうしてしまうことで色々不都合なことがあるなぁという気がしていて…。それはいまいち言葉にできないですけど。ある集団がいて、一個の物事、一個のものを作ることって、いわゆる展示に作品をもってくとはまた違う行為で、それってなんなんだろうなというのはありますね。

 

勝俣:通常作品は一回設置されたら会期終了までその状態であるというのが展覧会としての正しいあり方なんだけど、そういうかたちとは違って、ここで時間が流れていって、複数の人が何かをしたというプロセスがある。そこにさらに、大学で展示について議論した際の白板の記録が掲示されている。思考とか、展覧会のかたちの変遷みたいなものを可視化する、時間の流れを表象するような空間として機能しているのが、「作品」と「行為」の対比という点からも、面白いのかなと思いました。

 

川又:あと、この展示の全体としてこの彫刻コース、芸術文化政策コースの学生は、ある目的を持って集まった集団じゃないじゃないですか。バラバラで、偶然学年が一緒だっただけ。そのバラバラさをどう結びつけて、バラバラなんだけどひとつの展示をやるかというのが難しいなと最初思っていたのですが、個々でバラバラを保ちつつも、一個の共同体を構成するものとして壁が機能しているようにも感じました。

③ブルース・ナウマン / 彫刻ってなんだ?

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撮影:柳場大

勝俣:参考資料を持ってきたんですよ。これはブルース・ナウマンの《Performance Corridor》という作品。僕は今回の展示が、ブルース・ナウマンのこの作品にちょっと似てるなと思っていて。この《Performance Corridor》は、パフォーマンスの作品があって、それを前提として作られた構造体なんだけど、よく似てるんだけどやっぱり違う点がある。ナウマンの作品はCorridorと言われているように廊下、ちょうど人一人が通るのがやっとの幅で制作されたものです。コントラポストという片足に重心をかけたポーズをして、ナウマン自身がここを行ったり来たりし、一時間ぐらいそれを披露するというパフォーマンスが行われました。この作品では2枚の板の間の空間というのは、身体に対する「制約」として取り入れられている。そこがまず、今回の展示

との対比。ナウマンの場合は、人が入る壁の内部と外部という空間の軸が割とはっきりしている。それに対して、今回の展示空間の壁の場合は、「カンガルー」という有袋類の比喩が指示するように、内部と外部が比較的入れ替わりうるようにできている。だからどちら側にも何か掲示されていたり、作品が置かれていたりしていて、表と裏というのは恣意的な関係性でしかない。表と裏、その外部と内部が入れ替わりうるというか、交換可能になっているのがこの空間。その意味で、本展においてナウマンの作品が示す「制約」に近いのは、二枚の壁の間の空間というよりは、むしろギャラリーのもともとあった空間ではないかと思う。大きな空間の方がむしろ制約になっていて、こういう小さい空間の方が、反対に色々な活用可能性に開かれた空間になっているというのが、まず対比的な意味で面白いなと思った。ナウマンの場合は、より身体の受動性みたいなものを確かめていくような作品。体を壁との間でバウンドさせて、身体がどんどん消耗していくような感じは、貧しさみたいなものに身体が向かっていくことを想起させるけれど、それはここで起きていることの豊かさみたいなものとは、対比的であるように見える。この壁の形が似てるというのは一見ナウマン先生を尊敬している風にも見えるんだけど、実は違うよねという話をしたくて、持ってきたんです。

 

川又:確かに、壁自体をあんまり「制約」としては感じなかったかな。

 

勝俣:ちょうどこの作品が発表されたのが「アンチイリュージョン」という展覧会で、1969年のこと。そこで出された色々な作品が実践していたのが、実は時間性やプロセスといったものを作品に取り入れることだった。ナウマンの作品自体は、ある種身体の貧しさみたいなものを表象するものではあったんだけれども、一方で時間性の導入とか、プロセスによって素材が変質していく過程を可視化していくものでもあった。その意味でいうと、この「カンガルー展」で行われていることは、この「アンチイリュージョン」からの展開としてもたらされた文脈の中にあるような感じもします。歴史的な視点としてみると、ここで実際にプロセスみたいなものが提示されていたり、展覧会中に作品が増えていくような動的な変化が見られたりと、結構ブルース・ナウマンとの微妙な距離感というか、そういうものとして勝手に読んだんだよね。

 

中嶋:ナウマンの作品というのは、ジャンルとしての「彫刻」として出されたものなんですか?今回「彫刻と対話法」という展覧会タイトルですけど、そもそも一番のはじめの会議で、「彫刻」という括られ方はどうなの?ということを、みんなで議論したので。

 

勝俣:どうだろうね。ナウマンの作品にも見られるような、彫刻とビデオの間というか、複数のメディウムを接続させる作品のスタイルが、まさにこの60年代ぐらいから多くなってきた。彫刻ってなに?と聞かれて、その資格を満たすような条件を、パッと言えない世代が出てきたとも言えるかもしれない。その点では、今回の展覧会もいわゆる彫刻的なものばかりでもないじゃない?その辺はどうなの?世代感覚的に。

 

迫:壁を建てたり、展覧会の話をすればするほど、わからなくなっていくというか、自分が彫刻だと思っていた要素がだんだん削ぎ落とされていくのは感じました。作品として何かが出てくる以前の、もうすこし原始的な部分での彫刻というか。わからなくさせてる要素を自分たちで作ってしまおうとしていることすらも、若干わかんなくなったりだとか、複雑だなという風に感じていました。でもより自覚的に、ただ雑巾を投げているとか落ちた雑巾をもとに何かを作るだとかいうことが、ある意味で彫刻的だなという自覚はありましたね。

 

勝俣:すごく抽象的な言い方をしてしまうと、素材との対話みたいな。でも、ただ単純に素材にかたちを与えていくようなあり方ではなくて、例えば川又くんの作品のような、素材を形成していくという方向性では語りつくせないものもある。行為みたいなものにフォーカスを当てるようなあり方もあって、形式の捉え方も個々別々だなという風には思ったかな。

 

中嶋:須山さんの作品も、僕が一年くらい前に見た時は、いわゆる彫刻っていうのを連想させるような塑像の作品だったけど、ここ最近違ってきているよね。

 

須山:そうですね。別に素材だけの関わりが彫刻じゃないというか、塑像してたことによって、発想や思考が彫刻的になったような感覚があって、そうなった時に別に粘土じゃなくてもいいなというか。その塑像的思考を別のことで表現できるなというのは感じていて、なので私も今回写真とか、タンスとかにしたんですけど、彫刻的思考で作ってるから彫刻なのかなとは思っています。

 

勝俣:そっかそっか、ものじゃなくて思考の在り方としての彫刻っていうのは考え方として面白いよね。​

④A面ーB面の浸透 / 内と外の捉え方

​石川:壁の内側は会期中にだんだんと色々な意味が飽和していったけど、そこ(B面)でやっていることが、いわゆるA面に行くことは可能なのかと漠然と考えていました。

 

勝俣:そのA面の説明をした方がいいんじゃない?

 

迫:今回立てた壁の、作品のある側に向けられた面を僕らの中でA面と言っていて、逆に今ディスカッションをしているこちら側の場所をB面という風に言っていました。

 

秋元:どういう風にA面B面をつなげて行くか、作品と空間とを流動的に影響し合わせていくかが、メンバー共通の問題意識としてありました。それは今回の展覧会の大きな見どころでもあります。

 

迫:僕はこの中から雑巾を投げるみたいなことをしましたけど、それはA面とB面の関係性によって作品をつくる、あるいはその関係性も込みで作品にするような感覚がありました。ただメンバーそれぞれに、単体としての壁だったり、A面B面のような概念的な考え方だったりと、異なっているのかなとは思います。それによって作品も変わってきている人もいると思うので…。そういう意味で言ったら、石山さんの作品は壁との関係性を意識せざるを得ないという感覚があるなと思います。

 

石山:最初は抽象的な概念でAとBを考えていたんですけど、実際展示するときはそういう概念的な分け隔てがなくって、裏と表、AとBの面を物理的に捉えていました。私は複数の作品を出しているんですけど、位置で対応関係を作ったりだとか、物理的な方向にわりと興味がいった感じがあります。

 

川又:A面でしかできない事と、B面でしかできないことがあると思っています。B面では動的な関係というか、その場その場でやり取りするようなことができると思うんですけど、それを例えばA面でやるのは可能なのだろうか、もしできるとしたらそれはどういうことなんだろうかと考えたりします。市民ギャラリーで展示することって、そういう可塑的であることと関係するんじゃないかと思います。いわゆる企画展示とも違う可能性、流動的にできて、すぐ撤退する可能性が、市民ギャラリーにはあるのかなと。

 

勝俣:A面の側のすべすべの感じっていうのは、B面の構造が露わになっているのとも違うし、ギャラリーのもともとあった既存の壁面とも違うんだけれども、なんかその間をつなぐ境界面みたいな風にも読めなくはないね。作品が一点ものの人はどうでしたか?各所に作品を点在させている作家が多い中で、この壁との関係性はどう捉えたのだろう。

鎌崎:私は今回の作品を自立したものにしたくて、どこに置いても、それが成立するようなものを目指しました。ある意味受け身で、でも逆に受け身だからこそ自立性が深まるんじゃないかと思っています。

 

熊谷:今回出品した作品は、実際に動いている人体のクロッキーや、ムービングの手法を参考に制作しました。ムービングを題材にした石膏の作品を、3年生の時に制作し、芸祭にも出したことがあります。今回は木彫で行いました。制作はスケッチを行いながら進めています。

 

勝俣: A面とB面がある意味、ぬるっと繋がるような運動性がある。トルソ的な彫刻は「もの」なんだけど、そこに時間性とか身体の運動みたいなものが内包

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撮影:柳場大

されているように思う。今回はこの「カンガルーが走れば」という展覧会の中にそういう作品が出てきていて、作品同士が独自の関係性を持っているというのは面白かったです。いわゆる現代美術的な展示だなと思いつつも、結構こうしたトルソ的な彫刻もあって、その混在している感じが、よく見るとなかなかにモザイク的に見えて面白いなと。

 

秋元:都現美みたいだねとか…三回ぐらい言われました。

 

ー 一同(笑)ー

 

勝俣:いわゆるコンセプチュアルアート以後の脈絡みたいなものを、どこかで共有して展開されているような展示に見えたという実感がありました。

 

 

(終)

PROFILE

勝俣 涼

1990年生まれ。長野県出身。美術批評家。

2014年武蔵野美術大学大学院造形研究科 芸術文化政策コース修了。主な論考・エッセイに、「未来の喪失に抗って――ダン・グレアムとユートピア」(『美術手帖』第15回芸術評論募集佳作、2014年)、「ジョン・バルデッサリの修辞学」(『引込線2015』所収、引込線実行委員会、2015年)、など。主な展評に「近さと遠さの文法――利部志穂「サンライズサーファー」展」(『美術手帖』2016年3月号、美術出版社)など。

・コンセプトの企画・説明に用いられたホワイトボード ※クリックしてご覧ください。

個人作品

個人作品

石川 夏帆

ISHIKAWA Kaho

 

1995年    神奈川県生まれ

2014年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科入学

2018年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業

現在     武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻彫刻コース在籍 

 

「作意」と「卒意」の均整。「卒意」とは茶道用語のそれではなく、書画・禅画などで使われる「作意」の対義語としての「練ったものではない、飾り気が無い」という意味である。その石彫の整えられた無疵な表面は美しくあろうという作意の加工であり、一方断面からはその偶然性に身を任せる、気取らない姿勢が伺える。大抵の場合「作意」と「卒意」を同じ作品の中に取り入れると不調和や矛盾が生じる。しかしその作品の「割れ肌」は滑らかな曲線に反しているのにも関わらず、彼女の石彫にはそれが感じられないのは驚きである。一見すると寡黙そうに見える作品だが、その表面は作者の〈言葉〉を雄弁に語る。作業工程の複雑さや困難を感じさせないその表面は、石彫への深い理解と素材への愛が感じられた。(AH)

石山 慧華

ISHIYAMA Keika

 

1993年    神奈川県生まれ

2014年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科入学

2018年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業

現在     武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻彫刻コース在籍 

 

作品を印象付ける弁柄(ベンガラ)などの赤色の着色料は、鉄分を多く含み変色し難く耐候性・耐久性に優れていることから、古来より魔除けや厄除けに使われてきた。そして彼女の表現手法である同じ形態のものの集合は、暗に儀式を思わせる反復や結束の表れである。加えて、弁柄には「再生」の意味もある。彼女の造形が有機物を模したものが多い傾向にあるのはその為だろう。その呪術的な赤は、反復や集合の中で強い主張を見せる。それは、彫刻が持つ大作感や力強さを暗に求められてしまうことへの抵抗である。しかし、小さく有機物のような作品群は、抵抗と同時に柔軟さを感じさせる。その両義性の解釈が鑑賞者に思考の多層性をもたらしてくれる。刺激的な色の背後では穏やかだが、幾度も立ち直る決意ある抵抗が感じられた。(AH)向けられていない部分に向かって、ひとつの豊かな示唆を投げかけるものだからだろう。(NK)

鎌崎 静

KAMAZAKI Shizuka

 

1993年    千葉県生まれ

2014年    武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科入学

2016年 武蔵野美術大学造形学部彫刻学科編入

2018年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業

現在     武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻彫刻コース在籍 

 

その輝きから滅ばない肉体への憧れを感じる。旧約聖書の挿話「失楽園」でアダムとイブは知恵の実を食べ、不老不死ではなくなってしまう。そこから人間には「死」を経て、肉体の滅びが付き纏うこととなった。彼女が金属に魅かれる理由の一つには「滅び」への恐怖と神々しい「光沢」への興味があるのではないか。身体以外でもそのシンボリックな形態の作品やタロットカードをモチーフとした作品にも神秘主義的(絶対者や究極的実在との直接的・内面的一致の体験)な精神世界へも通じているのではないかと感じる。その信仰心のようなものが、彼女が抱く鋳造する際の灼熱への恐怖心に打ち勝たせてくれる。肉体はいつかは滅びる。しかし、作品とその精神は永遠であって欲しいと願っているかのようだ。(AH)

川又 健士

KAWAMATA Takeshi

 

1994年    東京都生まれ

2014年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科入学

2018年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業

現在     武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻彫刻コース在籍 

 

 

川又の作品に対する私たちは、およそ造形としての彫刻という印象からは隔たった、限りなく実際的な思考空間の中へと投げ込まれる。リアルが孕む矛盾を徹底して直視するその視線は、鑑賞者の意識を宙づりにし、この世界に頼るところは畢竟、自分自身のものの見方をおいて他にないのだといった種類の自覚を、それぞれに呼び起こす。現代社会の緩い繋がりとは反対の、自己と周囲が隔絶した感覚。しかし川又は、そんな孤絶に満ちた私たちを、突き放すことは決してしない。それは彼の作品が、見る者に「かくあるべき」といった一方的な理想を強要することなく、あくまでも彼が私たちと根底において共有する、世界の未だ目を向けられていない部分に向かって、ひとつの豊かな示唆を投げかけるものだからだろう。(NK)

+ cin .(特別参加)

熊谷 明雄

KUMAGAI Akio

 

1993年    東京都生まれ

2014年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科入学

2018年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業

現在     武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻彫刻コース在籍 

 

彼の「木から形を取り出す」という言葉通り、その作品への拘りは木材を選ぶところから始まる。そもそも木(木部)は篩管と道管という線状のものの集まりとも言える。彼の「刻線」はその線を改めて意識させ、木の生命感を際立たせる。それは木を掘るという不可逆性から感じられる時間感覚も相まって、より臨場感を持って感じられるだろう。人体やムービングのトレースはそれらの受け皿となる為の形を与える手段だ。その作品の「動き」や「やわらかさ」は、その木が持つ木目や年輪の線に調和し、鑑賞者に木材の美しさと柔和な安らぎを与える。『この木は生きていたのだ』。彼の「刻する」という行為は「きざみつける」という意味ではなく、木本来の力強さを表したと知らせるような「告する」ものなのかもしれない。(AH)

迫 竜樹

SAKO Tatsuki

 

1994年    広島県生まれ

2014年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科入学

2018年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業

現在     武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻彫刻コース在籍 

 

断片的なイメージの積み重ねとしての一日を、自己の意識の中で宝珠のようにつなぎ合わせながら、ひとつの象徴的な形態へと昇華していく。迫が意識を向けるのは、部分的なイメージの連鎖を、その総体としてのひとつの造形へと結びつけるためのプロセスであり、そのためか彼の作品はどれも、巨視と微視、マクロとミクロの視点の間を行き来する、豊穣なリズムに満ちている。象徴的で均整のとれた全体の中に、一方で私たちの視覚を捉えて離さない、ユニークで印象的なイメージの像が浮かび上がる。綿密に構成された、ある種映像的とも言える作品が持つリズムは、常にイメージの獲得とその内省を繰り返す、私たち鑑賞者の心の機微へと、差し向けられている。(NK)

神農 理恵

SHINNO Rie

 

1994年 三重県生まれ

2013年 名古屋学芸大学メディア造形学部ファッション造形学科入学

2015年 名古屋学芸大学メディア造形学部ファッション造形学科中退学

2015年 名古屋造形大学造形学部美術専攻コンテンポラリーアートコース入学

2018年 名古屋造形大学造形学部美術専攻コンテンポラリーアートコース卒業

現在     武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻彫刻コース在籍 

 

ありふれた物質の断片に垣間見える有機的な形態に目を向け、そこに新たな色彩と質感を付与することで、その物が辿ってきた運命的とも言える物語のイメージを拡張していく。様々なテクスチャーを持つ個々によって構成された空間は、ある種の絵画的とも言える均整を保ちながらも、一方で、その物質ひとつひとつが本来的に担っていた「あるがまま」の力強さ、見る者にとってどこか象徴的にその空間に存在しうる量塊としての威力を、失ってはいない。それは目についた物の内から魅力を持った形態を選び抜く、神農の優れた感覚によるものかもしれないし、あるいは、そうした物質の放つ声のようなものへ徹底的に耳を傾けるようと試みる、物質存在への慈愛に満ちた態度によるものかもしれない。(NK)

須山恵子

SUYAMA Keiko

 

1994年    神奈川県生まれ

2014年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科入学

2018年    武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業

現在     武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻彫刻コース在籍 

 

 

人間が社会的な生活を営む上で感じる「気配」というのは、動物の持つ本能的なそれとはまた違った種類のものとして存在するのだろう。ある不在の現場を目の当たりにしたとき人は、その場に残された微かな痕跡や背景、それが媒介する装置の特性などを総合しながら、あくまでひとつの主体を伴った、人格としての他者の「気配」を自分の中に呼び起こす。須山の作品が想起させるのは、いわばそうした、人間が他者との関係性の中で生きる以上、決して意識から拭い去ることのできないような「気配」の像である。そこにいるはずの誰かへと半ば無意識的に意識を向けずにいられないのは、人間のあたたかな共感か、あるいは、時に暴力的ともいえる他者への興味か…。造形上の個性を徹底して作品から排そうとする作者の姿勢は、そうした意識の普遍性へと、目を向けているのかもしれない。(NK)

執筆者紹介

 

中嶋健人|NAKASHIMA Kento

1995年    富山県生まれ

2018年    早稲田大学国際教養学部国際教養学科卒業

現在    武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻芸術文化政策コース在籍

 

秋元央嗣|AKIMOTO Hisashi

1993年    栃木県生まれ

2016年    大東文化大学文学部書道学科卒業

現在    武蔵野美術大学 大学院造形研究科修士課程美術専攻芸術文化政策コース在籍

後日談

後日談

『展覧会を終えての後日談』

 

展覧会を終えた後、参加メンバーが振り返りをした時の会話を書き起こしたものです。話題は個々人の反省や感想から、今後の課題の共有など様々です。内容は、大まかに「タイトル」「壁について」「自作と壁の関係」「壁の機能」「今後に活きたこと」「アーカイブについて」と分かれています。

 

参加メンバー 

彫刻コース:石川、石山、鎌崎、川又、熊谷、迫、神農、須山

芸文コース:秋元、中嶋

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彫刻と対話法Ⅴ−カンガルーが走れば−

2019年6月19日(水)~6月30日(日)

府中市美術館1階市民ギャラリー

 

主催 武蔵野美術大学大学院彫刻科コース

   武蔵野美術大学大学院芸術文化政策コース

協力 府中市美術館

デザイン 澤登信太郎 中山望  撮影 柳場大

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